「努力は報われるのか」池江選手の言葉に思うこと&小室氏の説明文書に関連して考えたこと

 

皆さんこんにちは。今週も『中国法務の扉』へのご訪問、ありがとうございました。最近、毎日滝を見たいと考えています。マイナスイオンが足りない…!どこか遠くへ行きたいな。

 

 

 

さて、今週は①「努力は報われるのか」―池江璃花子選手の言葉と為末選手のnoteを読んで思ったこと、②小室圭さんの説明文書に思ったこと、という中国ほぼほぼ無関係、いや全く無関係な時事雑談を書きたいと思います。

 

①「努力は報われるのか」について思うこと

 

私はスポーツにほとんど全く興味がなく、オリンピックにも興味がありません。池江選手について何の思い入れもなかったですが、今週4日に行われた五輪代表選考会の女子100メートルバタフライで優勝したときのレース後に「苦しくてもしんどくても努力は報われるんだなと思いました」と涙ぐむ姿をニュースで見て、自分も思わず涙ぐんでしまいました。それほど言葉や表情に迫力があったというか。相当の努力をされてこられたのだなということがダイレクトに伝わりました。

 

 

その後、池江選手の話題から「努力は報われるのか」というテーマについて書かれた元オリンピック選手の為末選手のnoteを読み、私がもし誰かに「努力は報われるのか」、と聞かれたら全然違うことを言うなあと思い、ちょっとまとめてみようかな(まとまるかは分かりません)と思いました。

 

 

このテーマを読んだ時、最初に考えたのが、そもそも人はなぜ苦しいのに「努力」するのか、ということでした。〇位になりたい、誰かに褒めてもらいたい、実力を証明したい…動機は色々あると思いますが、私はこの度…「努力して報われたときの喜びを知っているから」という結論に至りました。

 

 

今はもう少年事件や刑事事件をやっていませんが、以前これらの事件を受けていた時、出会った人の多くについて、「努力」をするのが苦手なようだと感じました。彼らと会話していると、話のよくわかる「いい子」「いい人」が多く、こちら側とあちら側の境目がよくわからないと感じていました。しかし、共通してもう少し「努力」や「忍耐」があれば…と感じていました。

 

 

なぜ努力ができないのか。報われた喜びを知らなかったからでは…。ここ数日でかなりスッキリした気がします。池江選手が苦しくても努力できるのは、その先にある喜びを知っているからであり、その経験がない、「喜び」を想像すらできない場合は、どんなにがんばろうと思っても努力を続けることができない。「喜び」はただ結果が出たことかもしれないし、家族や先生に褒められたかもしれない、でもとにかくそこに自分自身の「喜び」がないとダメなのだな、ということです。

 

 

 努力が報われないことがあることを知っている。でも[努力が報われたときの喜び>過程の苦しみ]を確信できていれば、努力することは喜びを得る手段となり、苦しい けど苦しくなくなる。私は過去、「もうちょっと努力してみようよ、もうちょっと堪えて頑張ってみようよ」と繰り返し言ってしまった気がしますが、その先の「喜び」を確信させる必要があったのではないかと反省しました。

 

 

確かにスポーツや試験は客観的な「結果」が存在する世界です。けれどそんな世界の報われなかった「努力」でさえも、もっと大きなスパンで見ると「その努力の結果今がある」と再評価できる場合は往々にしてある。そんなことも、大人になった今はわかります。

 

 

というわけで、私が「努力は報われるのか」と聞かれたら、「努力は報われると思う。けれど努力するためには、報われた後の喜びを知っていなければならない。少なくとも想像できなければならない。だから、努力が報われるかを心配するよりも、努力が報われた後の喜びを確信できる小さい成功体験を増やし、想像力を鍛えた方がよい。短期的に報われないと思うことがあっても、ほとんどの場合には後から報われたという再評価が可能であるから、あれこれ考えずに納得するまでやってみるべき。結果が出なければ努力の仕方を変えなければならないだろうが、それは努力が報われなかったわけではない」という回答になるなと思いました。

 

 

②小室氏の説明文書に関連して思ったこと

 

小室氏が昨日、説明文書を出され、20頁以上の長大なものであったことなど大変話題になっていますね。最初に白状してしまいますと、私は全文「見ました」が「読んで」はいません。プリントアウトまではせず(他にすべきことがある)PC上で見たのですが、〈超ななめ読み〉が私の目の限界でした。

 

 

色んな人が色んなことを言われていますので、私はこれ自体に詳細なコメントは控えつつ、ただ、「長すぎるやろ…ホンマにホンマにみんなに読んで欲しいと思って書いたん?」ということだけつぶやいておきます。

 

 

弁護士も裁判官も、文章が長くて分かりづらくて有名ですよね。なぜそんなに分かりづらいのかと聞かれた場合は「あえて分かりにくくして、業界を守るって感じかな」とお茶を濁しているのですが、私もよくわかりません。少し前は「けだし~、思うに~、とするところ~」と一文が軽く10行を超える準備書面や判決もたくさんあったと思いますが、最近は短くなっている傾向にあるような。どうでしょう。

 

私は先日コラムで書いた卒業論文を書いているとき、判決やドラフトの翻訳(日本語→中国語)に相当手こずりました。日本語だと「~は~であるが、~~~」と何気なく書きますよね。この時の「が」が曲者で、多くの場合「しかし(但是)」ではないのですよね。落ち着きがよいのでついつい使ってしまうのですが、うまく訳せず何度も途方にくれました。

 

 

 

分かりづらいと言えば「甲」「乙」や「原告」「被告」も分かりづらいなと思います。弁護士や裁判所もよく混乱しています。中には、契約書は必ず「甲」「乙」でなければならない、それ以外では格好がつかないと思われている方もおられるのですが、会社名/氏名表記で全く問題ありません。私は外国案件が多い甲乙嫌いの先生から指導を受けたため、基本的には会社名/氏名を入れた契約書を作ります(そのあと「甲」「乙」に変えたい場合はご自身で)。また、少し前から「原告」「被告」も名前で置き換えてみる試みを開始しました。定義さえはっきり分かれば便利なだけで支障はなく、裁判所からも何も言われません。

 

 

…ということで、分かりやすい短い文章が書けるよう、前例にとらわれず、引き続き努力したいと思います(このブログは徒然なるままに、ということでお許しください)。最近は知人の鈴置さんが出された「箇条書き」の本に影響され、箇条書きも多用中です。

 

 

それではみなさん、今週も楽しく元気にきげんよく、お過ごしください。また来週!